[第2話 ― 別のものが入ったな]
ドアノブは真鍮だった。手を伸ばしかけて、ためらった。

指が細かった。爪は誰かが整えておいたように丸く滑らかだった。私は爪を整えたことがない。そんな時間も、そんな理由もなかった。他人の手で他人の扉を開ける気分だった。いや、気分ではなく事実だった。
押した。扉は重くなかった。
コーヒーの匂いが先に来た。その次が木の匂い、その次が紙の匂い。天井まで届く書棚、低く灯された明かり、暗い色の木のテーブルがいくつか。カフェというより誰かの書斎のようだった。三十四年生きてきて、こういう場所に座ったことがない。こういう場所は私のような人間が来るところではなかった。だから寛げるはずのその心地よさが、かえって落ち着かなかった。
カウンターの内側に男がひとりいた。グラスを拭いていて顔を上げた。
「いらっしゃ… ん?? どうやって扉を見つけた?」
「え??」
おかしな挨拶だった。いらっしゃいませでもなく、扉を見つけたのかとは。男は私を見ていた。正確には、私を見ているのに私を見ていないような目だった。冷ややかな目。端正な顔立ちだという考えは一拍遅れて来た。それより先に来たのは、私が何か間違えたのだという感覚だった。
「すみません。まだ営業していないんですか? 新しくできたところだったのかな? 工事中だったのかな…」
そんな表示はなかったのに。外から見たときは確かに灯りがついていたのに。私は語尾を濁しながら後ずさりした。慣れた動きだった。間違って入ってしまった場所から静かに抜け出すこと。そういうのは得意だ。

「そこ、気をつけ…」
「あああ〜〜」
かかとが敷居に引っかかった。体が後ろへ倒れた。この体は私の体より軽くて、倒れるのも速かった。
ところが床に着かなかった。
腰のあたりに手が入っていた。男だった。カウンターの中にいた男がいつのまにか私の前にいた。走って来たというには音がなく、歩いて来たというには距離が説明できなかった。飛んで来た。そうとしか言いようがなかった。人間とは思えない速さだった。
目が合った。

顔がかっと熱くなった。私は目を逸らした。三十四にもなって、男に腰を一度支えられたくらいで顔が赤くなるなんて。この体がおかしいのか私がおかしいのか分からないと考えた、その短いあいだに—
男の表情が歪んだ。
「別のものが入ったな。」
どういう意味か問う暇もなかった。男は私をそのまま投げ飛ばした。床に肩から落ちた。痛かった。痛みより驚きのほうが大きかった。さっきまで私を受け止めてくれた手だった。

「お前は誰だ、その子の体に入ったのは!」
男が声を張り上げた。怒った声だった。いや、怒りという言葉では足りなかった。その声で室内の空気が一度に重くなった。明かりが揺れた気もした。息がうまくできなかった。
怖かった。理由を挙げられないほど怖かった。三十四になった大人が、初めて来たカフェの床に座り込んで、涙が出そうだった。保証金を失ったときも泣かなかった。集中治療室のガラス窓の前でも泣かなかった。それなのにこの男が声を上げると、泣きそうだった。喉が詰まった。私はその理由を知らなかった。そのときは知らなかった。

「ウヌ君、落ち着いてください。」
二階の階段のほうだった。澄んで清らかで、どこも揺らぐところのない安定した声だった。天使の声があるならこんな声ではないかと思った。詰まっていた喉が、その声ひとつでほどけた。
「女性の方が驚いているじゃないですか、ウヌ君。この方も望んでこうなったのではないでしょう。」
階段を下りてくる人がふたりだった。前は、どこか幼く見える顔の男だった。韓服をきちんと着こなしていた。その後ろから、配下のように見える屈強な男がついて下りてきた。彼も韓服だった。カウンターの男も、今見れば改良韓服のようなものを着ていた。コンセプトカフェなのか。そんなことを考える余裕もないのに、そんな考えが浮かんだ。

幼い顔の男が私の前に来た。歩いて来たというより、するりと流れて来たようだった。手を差し出して私を起こしてくれると、にこりと笑った。
おかしなことだった。さっきまで怖くて泣きそうだったのに、その笑みひとつで心がどこか楽になった。根拠はなかった。ただ楽になった。
「はじめまして、ジアンさん。私はここカフェ QUANTARO の主人、チャ・ウジンと申します。そしてこの者はバリスタのムン・ウヌさん。そして私について下りてきたこの屈強な者はチェ・ゴヌさんです。」
「はじめまして。ジアンさん、チェ・ゴヌです。」
屈強な男はその一言だけ言って一歩下がった。声は低く、表情はなかった。
私は三人を順に見た。ここの男たちは皆それぞれの魅力にあふれた、本当に整った顔の人たちだった。そんなところに気を取られている場合ではないのに。この体に入ってから、やたらと見当違いなところに目が行った。それとも、もともと私がそういう人間で、今まで見る機会がなかっただけなのかもしれない。
しばらく物思いに沈んでいると、ムン・ウヌが少しうつむくようにしてから、慌てて言葉を継いだ。
「代表、この者は人間ではありません! いや、生者でも死者でもありません! ただちに除去すべきです!!」
除去。
その言葉が体のどこかに刺さった。生者でも死者でもないという言葉は、私が集中治療室のガラス窓の前で自分に言った言葉だった。それをこの男がどうして知っているのかよりも、そのあとについた二文字のほうが大きく聞こえた。
「ウヌ君、落ち着きなさいと言っているでしょう。私も分かっています。」
チャ・ウジンは相変わらず笑っていた。
「彼女がここに来たのなら、それもまた神の意でしょう。彼女は悪鬼ではありません。怨霊でもありません。何か理由があって、しばらく別の体に入ることになっただけです。我々がその理由を見つけてあげなければなりません。」
ムン・ウヌの口が開いて閉じた。
「ちょうどウヌ君は今週ずっと非番でもありますから、彼女を助けて原因を探ってみればいいでしょう。」
「え???!!! それはどういう…」
「ウヌ君。」
一言だった。声が大きくなりもしなかった。それなのにムン・ウヌはそこで言葉を止めた。歯を食いしばったままだった。私はそれを見ながら、このカフェの序列を知った。大声ひとつ上げずに人を止める人がいるということも。
「ジアンさん、お座りください。立っていると脚が震えます。」
震えていた。私は言われるまま座った。木の椅子は冷たく、やがて温かくなった。
チェ・ゴヌがカップをひとつ置いて行った。言葉はなかった。コーヒーだった。私は手をつけなかった。他人の手で他人のカップを持つのは、まだ無理だった。

チャ・ウジンが向かいに座った。ムン・ウヌはカウンターの中に戻らず、柱のそばで腕を組んだまま立っていた。私をずっと見ていた。さっき腰を支えてくれた手で腕を組み、さっき私を投げ飛ばした目で。
私は尋ねた。遠回しに言う力がなかった。
「私はどうしてこんなことになったんですか。」
「それはジアンさんが見つけなければならないでしょう。」
「戻れますか?」
「それもです。」
チャ・ウジンは笑った顔で何も答えなかった。それなのに不思議と腹が立たなかった。代わりに別のものが来た。
「この扉は誰もが見られる扉ではありません。ジアンさんがこの扉を見たということ、それが最初の手がかりです。」
扉。昨日までなかった扉。私にだけ見えた扉。私はうなずいた。うなずきながら一拍遅れて気づいた。
私はこの人たちに自分の名前を言ったことがない。
はじめまして、ジアンさん。最初からそう呼んだ。この体の名前でもなく、私の名前で。尋ねようと口を開いた。ところがチャ・ウジンが先に言った。
「今夜行く当てはありますか?」
なかった。この体の家がどこか分からない。私の考試院の鍵は、集中治療室に横たわっている女のかばんの中にある。行く当てがないというのは慣れているのに、今度はその慣れがまるで慰めにならなかった。
チャ・ウジンが立ち上がった。そして私の隣の席に来て座った。向かいではなく、隣に。
「ジアンさん。」
「…はい。」
「ジアンさんのせいではありません。」

その言葉に何かが崩れた。保証金を失ったとき、誰も言ってくれなかった言葉だった。階段から転げ落ちたときも、集中治療室のガラス窓の前でも、私のせいではないと言ってくれた人はいなかった。私自身さえ言わなかった。私はいつも自分のせいにするのが先だった。運がないのも結局は私の巡り合わせなのだから。
「どんな理由であれ、ジアンさんが作った理由ではないでしょう。ですからここでは安心してください。ここでは誰もジアンさんを害しません。私がそうさせません。」
涙が出そうになった。さっきとは違う涙だった。怖くてではなく、誰かが私の味方だと言ってくれたから。三十四年のあいだなかった種類の言葉だった。私はこの幼い顔の男に、その場で寄りかかりたくなった。それがどれほど危うい気持ちなのか、そのときは知らなかった。
「…ありがとうございます。」
「礼を言うことはありません。ウヌ君が手伝います。」
柱のそばの男があからさまに顔をしかめた。チャ・ウジンはそれを見ても笑いながら立ち上がった。
「私は上がります。ウヌ君、お願いしますね。」
「…はい。」
チャ・ウジンが階段を上がって行った。チェ・ゴヌが影のようにその後を追った。ふたりが消えると、カフェの中が急に広くなった。残ったのは私と、私を投げ飛ばした男だけだった。
沈黙が長かった。私はカップをいじり、ムン・ウヌは腕を組んだまま私を見ていた。さっき腰を支えた手、さっき声を張り上げた声。その人とふたりきりで座っていると、どこに目を置けばいいのか分からなかった。
先に口を開いたのは向こうだった。
「それで、ここにずっといるつもりか?」
「…いいえ、その…」
「行く当てはあるのか?」
ないとは言えなかった。ところがないということが顔に全部書いてあったらしい。ムン・ウヌはため息なのか舌打ちなのか分からないものを出すと、懐から何かを取り出した。
カードだった。一組。彼はそれを手の中で切りはじめた。仕方ないという顔で。やりたくないことをやる人の手つきだったのに、手は不思議なほど速かった。

「今思い浮かぶ番号を三つ言え。」
「…え?」
「三つ。何でもいい。」
いきなり??? 何をしようというんだ? 私は彼を見た。彼はカードだけを見ていた。説明してくれる気はなさそうだった。私はとっさに、浮かんだまま口にした。
「…十七。三十四。三。」
自分の歳が混じって出たことは、あとになって気づいた。
ムン・ウヌの目から光が出た。
青い光だった。見間違いではなかった。瞳の奥で青いものが灯った。それと同時に、彼の手の中で切られていた数十枚のカードのうち三枚が同じ青色に発光すると、するりと、宙へ浮かび上がった。三枚は空中で互いに混ざり合った。誰がかき混ぜるわけでもないのに混ざった。そして一枚ずつ、ゆっくりと裏返りながら、私の前のテーブルの上に降りた。

私は息もできずにそれを見ていた。この体に入ってから不思議なことはたくさん経験したけれど、目の前でカードが飛ぶのは初めてだった。
ムン・ウヌは三枚を見下ろした。一枚目、二枚目。表情がなかった。三枚目で眉が少し動いた。

「まずは入れ替わった場所へ戻れ。」
「…え?」
「もとの体と入れ替わった場所へ行け。そこへ行けば寝る場所ができるだろう。その体についても、そこへ行けば答えを得ることになるだろう。」
階段。考試院の階段。私は聞き返そうとして、彼の次の言葉に遮られた。
「お前の心が、気の毒… ん… もういい。余計なものまで見てしまったな。」
「…何がですか?」
「さっさと行ってしまえ。私とは、時が来れば自ずと会うことになるのだから。」
それがどういう意味かと問う間もなかった。ムン・ウヌはカードをかき集めると立ち上がり、私を店の外へ押し出した。背中を押された。扉が開き、冷たい空気が顔に触れ、私は街角に立っていた。振り返ると、彼は戸口に立って、まるでハエを追い払うようにしっしっと腕を振っていた。

そして店の扉が消えた。
本当に消えた。真鍮の看板も、扉の隙間の灯りも、木の扉も。コンビニと、閉まったクリーニング店のあいだには、さっきのように、昨日のように、何もない壁だけがあった。

夢でも見たのか。
それにしては、白い肌と細い手首、肩の下まで下りる長い髪が、今この状況が現実であることを教えていた。手のひらを開いてみた。整えられた爪。他人の手。夢ではなかった。
不思議な人たちだった。不思議な人たちなのだから、その言葉どおりにしてみよう。他に手もなかった。
外は不思議なことに雨が止んでいた。私はその足で考試院へ帰った。
⁎
階段はそのままだった。昨日私が転げ落ちた階段。水気がまだ残っていて、不動産屋のおじさんが貼っておいた「階段が滑るから気をつけてね」の紙が半分はがれてはためいていた。私はその前に立った。
ここで何をしろというんだ。
寝る場所ができると言った。私の部屋はあの上にあるのに鍵がない。この体の部屋はどこかも分からない。ぼんやり立って階段だけを見上げていた。
「あのー」
後ろから声がした。振り返った。
見知らぬ男の子だった。中学三年くらいに見えた。制服の上にパーカーを羽織り、手には携帯がひとつと小さなかばんがひとつ。私のものではなかった。ところが男の子はそれを私に差し出した。
「これ、お姉さんのですよね? さっきお姉さんが病院へ行くとき、誰かに盗まれるといけないと思って僕が預かっておいたんです。」

言いながら顔を赤らめた。お姉さん。この顔を見て言う言葉だった。この体が昨日ここで転げ落ちたとき、この子が見ていたということだった。
「え? あ… ありがとう。」
私は品物を受け取った。男の子は照れくさかったのか、何か言いかけてやめ、急いでどこかへ走って行った。階段を上がるのではなく路地のほうへ。後ろ姿はすぐに消えた。
手に持ったかばんは軽かった。女の子たちが持つ小さなショルダーバッグだった。私はそんなかばんを持ったことがない。
開けてみた。
財布、リップクリーム、イヤホン。そして鍵がひとつ。キーホルダーに白いテープが巻かれ、そこにマジックで数字が書かれていた。
307.
考試院の部屋番号だった。この考試院の部屋番号の付け方だった。私は208号だった。私の部屋のすぐ上の階だった。
この女は、ここに住んでいた。
階段でぶつかったのではなく、同じ建物に住んでいた人だった。半年のあいだ一日に二度ずつ行き来した階段で、一度も会った記憶がない人。いや、会っていたのに覚えていないだけかもしれない。私は他人の顔をよく見なかった。見る理由がなかったから。
寝る場所ができるだろうと言った。その言葉がこれだった。
階段を上がった。二階を過ぎて三階へ。廊下の端から二番目、307。鍵が入った。回った。扉が開いた。
私の部屋と同じ広さだった。それなのに正反対の部屋だった。
私の部屋は半年のあいだ荷物だけが積み上がった。この部屋は人が暮らしていた。暮らすにも、とても懸命に暮らしていた。
壁の一面が紙だった。A4用紙をつなぎ合わせて作ったカレンダーにボールペンの字がびっしりだった。「○○チキン 7時」「スーパー開店式 11時」「敬老堂の慰問」「フェス応募書 — X」「フェス応募書 — X」「練習室 06:00」。町の名前ばかりだった。放送局や大きな舞台の名前はひとつもなかった。それなのに空欄がほとんどなかった。昨日の日付にも「○○チキン 7時」があり、その横に小さく「終わったら家」と書かれていた。
ハンガーにはビニールをかけた服が一着かかっていた。きらきらした生地だった。舞台で着る服。袖の内側が違う色の糸で縫われていた。誰かが自分で直したものだった。その下の床にはスニーカーが二足。一足は底が半分すり減っていて、一足は新品なのに箱のままだった。大事にしているのだ。私もそうやって靴を大事にした。

机は化粧品だった。ドラッグストアで売っているものではなく、種類の違うものが並んでいた。こういうのは放送に出る人が使うものではないのか。その横に絆創膏ひと箱、足首用テーピングひと巻き、まめの薬。そしてノートが一冊。
ノートを開いた。歌詞だった。手書きで書かれた歌の歌詞の上に赤いボールペンで線が引かれ、直され、また直されていた。余白には「ここで息」「高音ではなく低く」「末っ子のパートを替えてあげること」。最後のページにはたった一行があった。
今日も舞台ひとつ。
私はノートを閉じた。この部屋でどんな仕事をして暮らしているのか、分かる気がした。歌う子なんだな。歌うのに、誰も見ていないところで歌う子。
かばんから財布を取り出した。今度は開けてみるのが怖かった。開けた。現金が数枚、交通カード、そして身分証。名前のところを見た。この女には名前があった。二十二歳だった。十二歳年下だった。私はその名前を声に出して読めなかった。他人の名前を他人の口で読むのが、不思議と罪深く思えた。
携帯をつけた。ロック画面。パスワードを知らない。ところが画面を持ち上げると、ロックが解けた。
顔。この顔が鍵だった。
通知があふれた。未読のメッセージが数十件だった。
「明日の練習 10時 遅れないで」
「社長: 来週○○スーパー確定。ギャラ5万。四人で分けろ すまない」
「フェス側: 検討の結果、今回はご一緒するのが難しくなりました」
「末っ子: お姉さん大丈夫ですか?? 病院どこですか(涙)電話に出てください」
「末っ子: お姉さん」
「末っ子: お姉さん お願い」
不在着信十九件。全部同じ名前だった。
写真アルバムを開いた。同じ服を着た女が四人いた。この顔が真ん中だった。舞台と呼ぶには小さな台、その前に立っている人は十人もいなかった。そのうち半分は携帯を見ていた。それなのに写真の中の四人は笑っていた。本当に笑っていた。次の写真も、その次の写真も。舞台は毎回小さく、笑いは毎回大きかった。
私はベッドに座った。
知っている種類の人生だった。誰も認めてくれないのに、ひとりで夜明けに起きること。無理だと分かっていて応募書をまた出すこと。靴一足を箱のまま大事にすること。私はそうやって二十二を過ごした。バイトを三つ掛け持ちして鼻血を出しながら。あのころ私の部屋にもこんなカレンダーがあった。舞台の代わりにバイトのシフト表だっただけ。
ところが私は三十四で階段から転げ落ち、この子は二十二で私とぶつかった。
この子は、どこへ行ったのか。
その考えが初めて来た。病院でも、カフェでも、私は自分の心配ばかりしていた。私はどこにいるのか、私は戻れるのか。この体の持ち主が今どこにいるのかは一度も考えなかった。この部屋を見てはじめて、それが人だったのだと分かった。明日の朝十時に練習室へ行かなければならず、末っ子に電話をかけてあげなければならず、来週スーパーの開店式に立たなければならない人。
その体についても、そこへ行けば答えを得ることになるだろう。
答えではなかった。答えの代わりに借りがひとつできた。他人の体を借りたのではなく、他人の一日を丸ごと奪ってきたような借り。
そしてあの男は、私の心からいったい何を見たというのか。気の毒だというのか、もういいというのか。余計なものまで見てしまったというのはどういう意味なのか。
私とは、時が来れば自ずと会うことになるのだから。
その言葉がやけに残った。扉が消えたことよりも、カードが飛んだことよりも、その言葉が一番残った。
携帯がまた鳴った。末っ子だった。十九回出なかった電話だった。二十回目は出てしまった。なぜ出たのかは分からない。「お姉さん お願い」が目に焼きついていたからだろう。
「お姉さん!! お姉さん大丈夫ですか?? 今どこですか、病院ですか? 社長がお姉さん階段から転げ落ちたって、私もう本当に…」
泣き声だった。その声を聞いた瞬間、口から出たのは私の声ではなかった。いや、私の声だった。あまりに私のものすぎるのが問題だった。
「ああもう、ちょっとちょっと、泣かんとき。お姉ちゃんは大丈夫や。ちょっと転げただけやんか、人間、転げても生きとるもんやで。」
沈黙。
「…お姉さん?」
「なんや。ごはんは食べたんか? あんたまたカップラーメンやろ? 明日は十時に練習やろ、遅れんと早よ寝ときや。お姉ちゃん明日会うて話そ、な?」
「…お姉さん、声がどうして…」
「なんでや? 風邪ひいたみたいや。切るで、寝ときや。戸締まりちゃんとしいや。」
切った。切ってからしばらく携帯を見ていた。
私は今なんて言ったんだ。
ソウルに出て会社に通っているあいだ、取引先の前でも上司の前でも一度も出なかった釜山の言葉だった。それが二十歳になるかならないかの子の泣き声ひとつで全部飛び出した。それもどう聞いても三十代の口ぶりで。バイトを十は渡り歩きながら泣く後輩をなだめた、あの口ぶりそのままに。ごはん食べたんか、戸締まりちゃんとしいや。この子のお姉さんではなく、この子の叔母さんのようなことを言ってしまった。
末っ子から文字が来た。
「お姉さん、本当に大丈夫なんですよね…?」
大丈夫なのかと言われれば、そうではないのだけれど。返事をしなかった。そうしてから布団を敷いた。
他人の匂いがした。汗の匂いと湿布の匂いと安いシャンプーの匂い。私はその匂いの中で、三十四年にして初めて他人のベッドに横たわった。
つくづく運がない。
ところがその言葉が、今日は最後まで出てこなかった。
(第2話 了)